女子未来大学 事務局長 青山 雅子(以下、青山):今回の女子未来大学のテーマは結婚、妊娠、出産、育児、転勤、転職などなど。キャリアの転換期って様々あるかと思うんですが、『キャリアの転換期に私たちが選んだこと』というタイトルで開催させていただきます。
ではここから女子未来大学の説明ということで、最初に説明をさせていただけたらなと思います。この女子未来大学の説明についてはファウンダーの猪熊真理子が担当させていただきますので、ここから真理子さんお願いします。
女子未来大学ファウンダー 猪熊 真理子(以下、猪熊):皆さんこんにちは、女子未来大学のファウンダーの猪熊と申します。 今日は本当にお忙しい中お集まりいただきまして、ありがとうございます。最初に簡単に女子未来大学の説明を私の方からさせていただきます。
女子未来大学というのは、2014年11月にスタートした社会人女性のための学びのコミュニティでもあり、学びの場となっています。ファウンダーとして立ち上げたメンバーが3人おりまして、私猪熊と、駒崎クララ、岡田寿代という3人の女性起業家で立ち上げました。今事務局長として最初にご挨拶いただいた青山と、スタッフの梶川と大塚という6名体制で女子未来大学を運営しております。
今日は女子未来大学の中でもど真ん中のテーマだなという風に思ってるんですけれども、私自身は15年前から女性支援をしてきました。今まで2000人以上の女性たちの支援をしてきたんですが、女性たちの悩み、モヤモヤとか不安というのを聞いていると、 例えば「何歳までには自分は結婚してるはずだった」「子供を産んでるはずだった」「自分のお母さんが今の自分の歳の時にはもう私を産んでいた」とか。「今の生活ってなんとなく充実してるけれども、なんとなく不安でこれでいいのかなと時々思うんです」という悩みだったり、「自分の周りにこんな風になりたいと思えるような素敵な女性がいない」など、いろんな女性たちの不安を聞いてきました。
メディアとかでも『女性のライフスタイルが多様化している』という風に言われるんですけれど、多様化してるって言われても、あんまり具体的にイメージできないと思うんですが、どんなことか少し説明します。
今どういうことが起きているかというと、今日も20代、30代、40代の女性たちに受けていただいてると思うんですけれども、例えば今の私たちのおばあちゃんぐらいの世代である60代~80代ぐらい、もしくはお母さんぐらいの世代になる方もいるかもしれないんですが、60代~80代ぐらいの女性の生き方を見ていくと結婚して専業主婦になる人が多くて、まだまだ働く女性たちが少ない中で女性というのは結婚することが幸せ、子供産むことが幸せ、という画一的な価値観に当てはめられるような世の中の機運があったり、それとは違う生き方を選ぶとなかなか苦労したという世代があります。
その下に40代~60代ぐらいの世代の女性たちがいて、専業主婦だけじゃなくて働くという女性たちが増えてきたんですけれども、やっぱりまだまだ少数派。先人が少ない中で、例えば男性の3倍働いたりして働き方を開拓してくださった女性たちがいます。
今の20代~30代というのは、もう世の中的にも女性も活躍しましょうという風潮だったり、自由な働き方ができますという風潮なので、 働く選択肢というのはかなり多様に増えてきてるんですけれども、自分らしい生き方に迷ってるんだなという風に感じています。
この数十年の間に女性の生き方、働き方というのが激変してきているというのが男性と1番違うところです。男性というのは仕事に就いたら一生働くみたいなイメージが強い方が多いと思うんですが、女性たちというのはこの数十年の間で自分のお母さんやおばあちゃんの生き方も参考にならないというぐらい、生き方や働き方が激変しているんです。
これは心理学でよく使うライフコースの木という図がありまして、縦軸が20代、30代、40代と年齢になっています。学校を卒業して就職した後、結婚する・しないという分岐があって、結婚した後に仕事を辞める・辞めないとか、辞めて専業主婦・専業主夫になったり、辞めずに続けて両立する両立型になったり、仕事を両立しながら子供を産む・産まないということがあったり。例えば学校卒業して就職した後、右側に上がっていって非婚への方向づけって書かれているんですけれども、結婚せずにバリバリ働いてきて、例えば40歳ぐらいになって急に結婚したり、妊娠・出産がするということあったり、女性のライフスタイルというかライフコースってものすごく多様な分岐があるんです。どの道を行けば自分が幸せになれるかどうかわからないし、この道を行きたいと思っても必ずしもその年齢で結婚できるか、その年齢で満足できる仕事につけるかとか、自分だけではコントロールできるものが多くない。いわゆる不確定な要素が多いという風に言うんですけれど、女性の人生って不確定要素が多いというところが迷いや不安を生んでいるんだなという風に理解しています。
選択肢が多いって一見幸せなことのように思えると思うんですけれども、選択肢が多いということは自分で満足できる生き方・働き方を自分で選んでいかなきゃいけないんですね。そういう風に考えると、 「これでいいのかな?Aでいいのかな?Bでいいのかな?」という風に不安になってしまうのも当たり前かなと思います。さらに今、時代的背景も重なって選択肢が多いと自分が選ぶ責任も増えますし、いろいろと何かが起きる前に過度に心配しすぎてしまうということもあります。 プラスソーシャル化とか、今インターネットがすごく普及しているので、例えば今まで「自分の人生これで満足!」と思えていた女性たちも、そうじゃない生き方・ライフスタイルの女性たちがSNSとかでたくさん見えてきちゃうんですね。そうすると「本当にこれでよかったのかな?」っていう風に迷いとか不安が生まれてきているのかなと思っています。
女子未来大学は3人のファウンダーがいるんですが1番最初に思ったことは、女性が幸せに生きるということを考えたときに「私ってどうやったら幸せに生きられますか?」という答えって、誰も教えてくれないじゃないですか。なのでその答えそのものを誰かに教えてもらうのではなくて、自分がこういう風にしたら満足いく人生を送れるだろう、こういう働き方で幸せになれるだろう、という答えを自ら導き出せる力(How to think)を持つ女性を1人でも多く増やしたいという思いで女子未来大学を立ち上げました。
女子未来大学には3つのコンセプトがありまして、女性が豊かに生きていくために自由に学ぶ、学びを通して創発するコミュニティ、多世代・多様な価値観の人から学ぶということで、入学金もカリキュラムもないです。 自由に好きな授業を好きな時に受けに来ていただくっていうようなスタイルを取っています。
女子未来大学には4つの学部がありまして、なりたい自分になる学部、想いを磨き実現する学部、多様な人を知る 人を理解する学部、世界と繋がる 日本を知る学部という4つの学部テーマに基づいて、毎月の授業を企画しています。
今まで累計2000名以上の女性たちに参加していただいてるんですけれども、10代から70代までの女性たちに参加していただいたことがあります。 働いている人・働いていない人、結婚している人・結婚していない人、子供がいる人・子供がいない人ということで、本当に多様な女性たちに参加いただいてるのが女子未来大学の特徴です。
女子未来大学がローンチしたのは2014年11月なんですけれども、そのときはまだコロナ禍じゃなかったので約100名の女性たちが集まって女子未来大学のローンチイベント女性が輝く未来会議というのを行いました。
その後、基本的に東京で対面開催を毎月してきていたんですけれども、関西校というのも今の事務局長の青山さんにお願いして、京都とか大阪であったり関西で授業を開校したり、コロナ禍になってからはオンラインで授業を受けられるような形で、日本全国だけではなくて海外に移住した女性たちからも興味があるテーマであれば受けていただくようなことができております。
女子未来大学はかなりテーマが幅広くて、今日はキャリアの授業なんですけれども、例えばライティングとかSNS運用の話があったり、女性の健康について考えたり、お着物の講座、写真の講座をやってみたり。お稽古ごと的なものや文化を学ぶものから、女性のキャリアを考えることなど幅広く毎月いろんなテーマの授業をやっておりますので、またぜひ機会があれば気になった授業に受講いただければなという風に思っています。 私からの女子未来大学の説明は以上です。
青山:ありがとうございます。ここから本題のところに行きたいと思います。『キャリアの転換に私たちが考えたこと、選んだこと』ということで、ファシリテーターの真理子さんと進めていきたいと思います。まず最初に母里比呂子さんから自己紹介をしていただけたらと思います。よろしくお願いします。
株式会社hriondelle 代表/ORGANIC GREEN TEA LIFE株式会社 代表 母里 比呂子(以下、母里):
皆さん初めまして、MATCHA HEVEN代表の母里比呂子と申します。よろしくお願いします。まず自己紹介をさせていただきたいと思います。大学卒業後、 国際線の客室乗務員をして、リクルートで働き、一度専業主婦になりました。 その後に女子未来大学のファウンダーでもある真理子さんの会社で働いて、その後起業して、3年前から現在の抹茶事業をスタートしてMATCHA HEVENというブランドを立ち上げました。MATCHA HEVENは、第一次産業を守るべく生産者さん支援のために立ち上げたオーガニック抹茶を中心にしたとした事業です。天国に1番近い場所と言ってもいいくらい標高の高いところに茶苑があって、湧き水が出るくらいクリーンな環境で育てられているところを厳選して、本当においしい有機抹茶を販売しています。自分が静岡県出身なこともあり茶業にはすごくゆかりがあったというところで、静岡県の有機抹茶をメインにいろんな加工食品を作っています。
1番初めに自分が立ち上げたときはファーマーズマーケットから始まって、どれくらい抹茶の需要ってあるのかなというところから始まって、まずMATCHA HEVENというブランドがない頃からヴィーガンフェスで販売したところ、ドリンクが1日で120杯売れて、抹茶の見せ方とかによって結構売れるんだなということを自分自身も体感しました。
その後にMATCHA HEVENのプロダクトを作って、抹茶はカフェインがあるのでお客様のニーズに沿ってほうじ茶を販売したり、お抹茶セットを作ったり、皆さんのライフスタイルに合わせて商品化をしてきました。それで今抹茶事業を歩んでいます。簡単なんですけど、自己紹介は以上です。
猪熊:ありがとうございます。今日登壇いただく母里さんにも卜部さんにも、キャリアグラフというのを書いてきてもらったんです。キャリアグラフってご存じの方もご存知じゃない方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、母里さんのキャリアグラフはこんな感じのものですね。横軸が年齢になっていて、自分のお仕事もプライベートもそうなんですけど、人生の中で起きた出来事を上がプラスで幸福度としてすごくポジティブな幸せだったこととそうじゃなかったときのことを、真ん中を0にしてどんな風に浮き沈みがあったのかというのを少し書いてきていただきました。後で卜部さんにも自己紹介とキャリアグラフをご紹介いただこうかなと思っているんですけど、今回はキャリアの転換機というのが1つのテーマなのでどんなところでご自身がキャリアの転換だったか、もしくは人生の転換期と感じてこられたのかっていうを少し先に伺っておこうかなと思うんですが、今ちなみに母里さんは37歳でしたか?
母里:38歳になりました。
猪熊:ではここが転換期だなと思ったところって何個ぐらいありますか?
母里:大きく言うと2つかなと思っていて、転職と結婚というのがキャリアの転換期になったとこのヒストリーを作りながら思いました。
猪熊:転職は何歳のときの転職ですか?
母里:職場は新卒でJALに入って3年後の26歳のときです。
猪熊:新卒で入って26歳のときにリクルートに転職したんですか?
母里:そうですね、リクルートに転職しました。
猪熊:その転職のときと、あと結婚は何歳のときですか?
母里:28歳です。
猪熊:どうして転職が転換期であり、自分の中の分岐点と思っていらっしゃるんですか?
母里:私は幼少期からCAしか見てなくて、大学生からずっとCAになりたかったんです。CAというのは客室乗務員のことなんですけど、自分の実体験からCAになりたいと思っていて、私の父の叔父がカナダ 人と結婚して今カナダに住んでるんですけど、子供たちだけでエアカナダという飛行機を使っていたときに、そのときは英語は全然喋れなかったんです。めっちゃ単純な話なんですけどカナダ人がすごく優しくしてくれて、その優しさに触れてCAになりたいっていうところから始まりました。こういう優しさで人を幸せにできる仕事ってめちゃくちゃいいなと思って、そこからずっとCAになりたいなと思っていました。でも静岡県の掛川ってすごく田舎で、CAになった人ってほぼいなかったんですよ。高校の先生とかからも「CAには絶対なれないよ」みたいな、子供の夢を平気で潰すようなことを結構言われてきて。でも自分はなれるって信じていたし、自分の親もそのときの担任は信じてくれていて、ずっと目指していたCAに無事なれました。
ただすごくなりたくて夢を描いていて実際になったんですけど、自分の思い通りにならないことがあるんだなっていうのが転職です。私が新卒で入った会社は倒産してしまって、民事再生で転職するという自分の意思とちょっと違う転職をしたんです。その当時は私はまだ若かったんですけど、35歳以上がリストラ対象になっていました。自分の約10個上の先輩のフライトスケジュールが全部真っ白になってたんですよ。飛びたいけどもう飛ばせてもらえないっていう先輩方のフライトスケジュール見たときにすごい切なくなって、10年後にこの会社が倒産とかになった場合は私も飛びたくても要らない人っていう扱いされるんだなと思いました。いわゆるテレビのハッピーフライトみたいな感じで本当にフライトが欲しかったんですけど、そのときに「自分は10年後、20年後、30年後、どんな自分になっていたいのかな」ということに向き合わされたというのがあって、そこが転換期かなという風に自分は思ってます。
猪熊:転職のときに他の客室乗務員というか航空会社に転職するという選択肢もあったと思うんですけど、全然異業種のリクルートに転職したのはどういう考えがあったんでしょうか?
母里:それも実際考えたんですけど、他のところに転職しようかなって思ったときに会社が倒産したこともあり、そこの会社だけじゃなくても景気が悪かったんです。でもコロナのことはその当時は全然思いもつかなかったですけど、基本的にキャリアとしてCAだけだと転職がしづらいだろうなとか、もしかしたらその経験によって自分の中でバイアスがかかっていたかもしれないです。
もう自分の好きなところから離れて何かスキルというか、どこにいても対応できるようなものを社会人として得たいというのがあって、転職を考えたときに自分の性格上すごいお節介だからキャリアコンサルタントになろうかなと思いました。キャリアコンサルタントの事業や転職エージェントとかも結構リーマンショックがあってなかなか転職が難しかったり。8回ぐらい面接に行って最終面接でいいところまでいったのに落とされて。ただ私は営業経験だけが無くて「人としてのポテンシャルはあるけど、 営業経験だけが足りないのがずっと引っかかってるんだよね」みたいなことを2つの大きな会社に言われて、でも8回も行ったらさすがにわかるだろうってどっかで思ってたけど落ちてしまったんです。落ちた理由もしっかりと真摯に教えてくれたこともあったので営業力をつけようと思い、 営業と言ったらリクルートとすごく単純な考えだったんですけどリクルートに転職しました。
猪熊:でもすごいね。高校生のときから転職する26歳ぐらいまでの間だったら8年間、自分の目標としてきた夢というかそういう風になりたいと思って追っかけてきたものが、自分じゃないことの事情によって変えられるというのは他の女性たちでもあると思うんですけど、そこでまた新しい目標がすぐに見つからなくても自分に足りないものとか、自分にもっと身につくと別の分野で活躍できるものというのを、転職活動を通してちゃんと見つけて新しい境地を切り開いてるってすごく素敵だなと思って聞いていました。
もう1個、結婚が転機って仰っていましたけど、これはどうしてですか?
母里:結婚は皆さん言えると思うんですけど、今の日本だと自分の結婚という選択肢を自分が決めることによって会社を辞めるということにしたり。今思うとこれもバイアスがかかっていたかなと思いますが、 その当時は子育てしながらリクルートでバリバリ働いている上司があまりいなかったので、ロールモデルと出会えなかったのも大きな要因だとは思います。バリバリ活躍されている方はお子さんがいらっしゃらなかったり。今はブラックではないですけど、当時は朝の8時から夜の2時とかまで働いてたこともザラにあって、それを結婚しても続けられるかなって思ったときに「私は無理だな」と感じて、自分の意思で結婚を決めて会社も辞めることも決意をしたということで、そこが転機だなと思っています。
結婚と言えば幸せ、心も安定するって思っていたんですけど、結婚してすぐ子供ができて、私は28で結婚はしたんですけど周りは30〜35半ばぐらいで友達は結婚していて、その当時は私しか結婚していなくて子供もトップバッターが私だったので、周りがすごい活躍してても「自分の人生ってこれでいいんだっけ」みたいな形になってしまって、そこから人と比べたくなかったけどどんどん比べてしまったり、幸せなはずなのに自分で幸福度を感じられなかったり。社会との断裂っていうのも自ら作っていたのかもしれないですけど、それを感じて今後の見方、どういうキャリアを築いていくのかっていうので向き合わさせられた。それが結婚・出産だったので、そこが転換期かなって思っています。
猪熊:だから今本当に女性の人生も多様なので、結婚してもしなくてもいいし、子供を産んでも産まなくてもいいし産めない人もいるし、働くか働かないかというのもある意味その人の価値観で、その人が幸せだったらどんな道でも良くて正解ってないと思うんですね。そうなんですけど、例えば今の仕事にそんなに満足がいってなくて不満があったとして、でも結婚したら全部解決するんじゃないかと考えてしまっている女性たちもたくさんいて、もちろん今の不安感とかモヤモヤが結婚して全部解決する女性もいるんですけど、結婚してもやっぱり自分の中に何か欠けている感だったり、これが本当に自分がやるべきことなのか、 自分が誰かの役に立てているんだろうかとか、やっぱりそこで逆にもっとモヤモヤを感じ、埋められると思っていたもので埋められないと感じている女性たちも多分たくさんいる中で、比呂子さんはすごくまっすぐで正直な人なので全部まっすぐに味わってきたなという風に思いました。ありがとうございます。
母里:ありがとうございます。
猪熊:またトークセッションの時間があるので、卜部さんの自己紹介とキャリアグラフを紹介させていただいた後に、お2人により詳しくお話を聞いていきたいと思います。では卜部さん、自己紹介をお願いします。
株式会社メルカリ HRBP of Products 卜部 幸恵(以下、卜部):ありがとうございます。皆さん初めまして、私は卜部幸恵と申します。 今大阪府に住んでいるんですけれども、メルカリという六本木本社のオフィス勤務で大阪からフルリモートで働いております。
簡単にこれまでのヒストリーを含めてご紹介したいんですが、大学時代はスターバックスで4年間アルバイトをしていて、スタバって皆さんもよくご利用されるかなと思うんですけど働いてたらすごい楽しいんですよ。 私はアルバイトフリークで高校生のときからいろんなアルバイトをして自分でお金を稼いで使えるのが楽しいなと思っていたんですけど、どこのアルバイトよりも全然違うとびっくりしたのが大学1年生のときだったんです。スターバックスって人事戦略が強い企業で、コーヒー屋さんっていう風に思われるかもしれないですけど実はスターバックエクスぺリエンスという体験を売っている、ビジネスをしている会社で、そこのフロントでお客さんに価値を提供しているのはパートナーという風に呼んでいるアルバイトのみんななので、ここへの教育投資というのに非常に力を入れてる会社です。今でこそ人事の中で言うとエンゲージメントとか、働いてる従業員のみんながその会社のミッションとかビジョンにどれだけ共感しているのかすごく大事な指標として言われてるんですけど、私が大学生のときなのでもう15年以上前からそれがビジネスの源泉として重要であるってことを理解して、現場に落とし込めるような会社だったんですね。私も当時18歳だったのでまんまと乗せられて「楽しい、楽しい」って言ってアルバイトに行くのが楽しみで仕方なかった4年間を過ごしました。
そこで働くのが楽しいなという風に感じたのと、あと人事って企業の差別化になるというか、ここが強いと他の企業ってその企業感覚は真似できないので非常に強い競争性になるんだなということを学んで、人事のキャリアに就こうと思ったのがきっかけで就職活動をしてデンソーという会社に内定をもらって入社をしました。
デンソーってトヨタ系の愛知県にある自動車系のメーカーなんですけれども、そこに入社をして 海外人事をやらせていただいてたのが1社目になります。大学時代までは本当に働くのが大好き、どんどん働きたいみたいな形でいたんですけど、皆さまトヨタ系の会社をご想像していただければわかると思うんですけど、日本企業で古い会社なんですよ。上を見上げるとおじさんばっかりで女性の総合職自体がそんなにいないですし、 極め付けに自分が尊敬してた当時の部長が男性だったんですけど、 尊敬してた女性の先輩社員にお酒の席で「あいつも子供産んだからもう昇進無理だな」みたいなことを言っているのを聞いちゃってすごい幻滅して、 日本で女性が総合職でバリバリやってくのって無理なんだなと思ってしまったんですね。私が入社したのが2009年、退社したのが2011年だったんですけど、 当時iPhoneなんてないわけですよ。皆さん懐かしいと思うんですけど当時はiモードとかなんで、いろんな情報も全然ないし聞けるエピソードというと真理子さんの冒頭のお話でもありましたけど、自分のおばあちゃんか母親あるいは友達プラスちょっと先輩がいればいいかなぐらいのサンプルしか周りにないわけですよね。だからいろんな生き方も入ってこないし、他にもっといろんな働き方があったはずなんだけれどもそこにも全然情報としてアクセスできないというので、こんなもんなんだわって幻滅して結婚を機に辞めてしまいました。
私は高校が国際高校でインターンみたいなところへ行ってたんですけど、そんなとこ行ってるぐらいなんで当時からすごく世界に興味があったんです。単純にピュアな好奇心として「せっかく地球に生まれたし日本だけじゃもったないから、いろんな国のこと知りたい、いろんな人と出会いたい、いろんな人と話をしたいし、どんな生活があるのかしら」という風にずっと思っていてその好奇心を捨てられず、結婚を機にずっと移住してみたかったカナダに移住をしたのが24~25歳ぐらいのときでした。当時の旦那さんがカナダ人だったのでそれもあって移住したんですけれども、20代の後半は4〜5年間カナダで過ごして、当時はビザの関係もあってカナダで特に仕事をしているというわけではなくて、結婚生活をしながらカナダで過ごした20代後半でした。子供を第一子を産んだのが30歳ぐらいのとき、今から多分振り返ると産後クライシスみたいな感じだったと思うんですけど、子供を生んですぐ離婚することになりまして。当時4ヶ月ぐらいでまだ骨盤がちょっとぐらぐらしてたかと思うんですけど、骨盤グラグラさせながら日本に子供抱えて戻ってきたのが30歳ぐらいのときだったんです。これから自分も離婚するぞと思ってますし、とはいえやっぱり子供はすごい可愛いししっかり育てていきたいという思いもあって、キャリアに復帰せざるを得ない状態になったっていうのが本来のところだったかなと思います。
いろいろ復職に向けて書類を送ってみるんですけど、全然通らないんです。書類で弾かれちゃう。求人を見て送って弾かれるっていうことをしばらく繰り返して、最初は腹が立ったんですよ。新卒のときは総合職でしっかり働いてたし、カナダで仕事してなかったと言ってもグローバルな経験をする中で英語だってできるようになったし、移民として生きていくとかそういった経験も積んで人間としてはすごいパワーアップしてる。なんなら子供が産まれてさらにパワーアップしてるのにそういう経験は全然評価してもらえないというところにすごく憤ったんですけど、いくら憤って地団駄踏んでても雇ってもらえないので、雇ってもらえないならいわゆる総合職的な仕事で復帰するのは一旦諦めて、ここでわらしべ長者型キャリアという風に書いているんですけれども、階段型に挙げていくしかないという風に思い至りました。
当時はそれもすごく葛藤があって、例えば一旦派遣社員とか履歴書についてしまうとすごいキャリアダウンしてるという風に思われちゃうんじゃないかとかいろんな葛藤があったんですけど、そんなこと言ってられられないっていうのと、やっぱりそこからでも絶対積み上げていくことで証明して見せるぞという風に自分の中で思い直して、当時週3回の派遣社員から社会復帰の一歩を踏み出したのが同じ30歳のときでした。派遣からリスタートしたんですけれども、トイレ掃除からでもいいから社会に復帰を始めて、そこで出会う人とか何か渡されたものに対して期待を上回るものを返していこうと思っていました。そうすることで必ず積み上げていけるはずだから、何が来ても期待値以上のものを返していくことと、そこで出会った人たちのご縁を大切にすることを心に決めて戻りました。そうすると、その派遣の仕事がエグゼクティブアシスタントの秘書的な仕事だったんですけど、当時の上司の方がすごく人脈の広い方で1年ぐらい経ったときに「卜部、何してんねん。こんなところでアシスタントしてないで、僕の人脈を誰でも紹介してあげるから、どんな仕事を次にしたいんや」というようなことを聞いてくれて「1社目でずっと人事の仕事をしてたので人事の仕事だったら経験もあるし、何かしらお役に立てると思います」という話をして、そこで紹介していただいたのが2社目の人事コンサルティング事業の立ち上げの仕事でした。
コンサルもやったことないですし、ちょっと前まで赤ちゃん抱っこしてたぐらいなので「私がコンサルタントなんてしていいんですかね?」という自信のなさがあって当時の上司に言ったんですけど「何言ってんねん」という風に一蹴されました。「パズルみたいな形でちょっとずつ、ちょっとずつやりやりながら埋めていけばいいんだよ。だから最初からパズルなんて全然完成してなくてもいいんだよ」という風に言われた一言が後押しになって、いただいたご縁にチャレンジすることを決めたのが31歳ぐらいのときです。そこで3年ほど人事コンサル立ち上げの仕事をしまして、この1月から今度はインハウスの人事、インハウスというのはコンサルタントではなくて事業会社の中の人事です。また人事で経験を積みたいなという風に思いまして、1月からメルカリに参画して今はメルカリでHRBPというHRビジネスパートナーという仕事をしています。
メルカリは日本のサービスなので日本人ばっかり働いてるという風に想像される方が多いんですけど、中を見てみると非常にグローバルで、特に私が見ているプロダクト部門というのはメルカリの中でも国籍が多様な組織になっています。 今マネジメントチームという風に書かせていただいてるんですけど、フィンランド人のトップの方を中心に、オーストラリア人、韓国人、アメリカ人。私を含む日本人の7人で今プロダクト組織について、どういう組織であれば今の事業戦略を達成できるのかなっていうことを日々考えています。自己紹介はこれぐらいにしておきますね。
猪熊:ありがとうございます。まず大学生のときに「私がやりたい仕事は人事だ」と思って気づいている人というのはほとんどいないと思うんです。大学に入ったらやりたいこと見つけようと言って入って、とりあえず就職できる会社に就職してそこからやりたいこと見つけようという人が日本で多い中で、すごく目的意識がはっきりしてるということとか、自分のやりたいことにちゃんと真摯に向き合ってきて、しかもトイレ掃除からでもいいとかむちゃくちゃ男前ですよね。そこまで肝が座っているからこそ本当にご自身も成長してきているし、他の人からも求められる人材としてわらしべ長者型のキャリアを実践されてきてるんだなという風にお話聞いていて思いました。ありがとうございます。
キャリアグラフは今回手書きで書いてくれました。幸恵さんの中で人生の転換期、もしくはキャリアの転換期と思えるポイントってどのあたりですか?
卜部:そうですね、転換期はいっぱいあるんですけど、やっぱり新卒の会社がミスマッチだったというのは1つ転換期なのかなと思っています。そこから逃げるように結婚って書いてるんですけど、当時働くことに幻滅しちゃって。付き合ってた彼がいたんですけど、そこで逃げるように結婚したというのは私のしくじりエピソードの1つだなと思っていますね。真理子さんがさっき「結婚して満たされる人もいれば、やっぱり違うという風にずっと思う人もいる」と仰っていたんですが、私はまさに後者の方だったんだなという風に聞いていて思いましたね。
猪熊:しかもそれって自分がそういう境遇になってみないとわからないことがありますよね。やっぱり思い描いてたところと違う、それは仕事もそうだと思いますし、もちろん働いてみないとわからないし、採用する側も会社側もそう思っているし働きに来る人側も思っていて、こういう会社でいいんじゃないかなと思ったけどうまくいかないとか、 結婚したら満たされるんじゃないかなと思ったけどやっぱりそうじゃなかったとか、その境遇に実際に自分が身を置いて初めて思うことはあって当然だと私は思っています。それを全部予測できたら予言者みたいでちょっと怖いじゃないですか。そういう意味では絶対浮き沈みも想定外という部分もあるし、ただその境遇に置かれてその状況があんまり自分にとってハッピーじゃないと思ったときに、次にどういうアクションをしていくのか、次にどういう風に考えるのか、そこで諦めたりネガティブなことを誰かが整地するのではなくて、自分にとってポジティブになれる方にどう転換していくのかがポイントなのかなという風に思いました。1番辛かったのはやっぱり離婚を考えたときですか?
卜部:そうですね、そのときがやっぱり1番辛かったですね。子供抱えてこのままホームレスになっちゃうのかしらくらいの切迫感だったんですよね。 さっきの真理子さんの話にもありましたけど、新卒の会社も自分の中では違ったりするんで、結婚したんだけどそれも嫌だったって「私すごいわがままなのかしら?」というような思いも自分の中にすごくあって「私はじゃあ何をしてれば幸せなんだろう」という自分自身への疑問もあって、その当時は辛かったですね。
猪熊:その瞬間はそう思っていたとしても、今振り返ってみたらそうは思わないですか?
卜部:はい、振り返ってみるとやっぱりそうは思わなくて、欠けていたものは自分自身のことをよく知ってそこにあった職場を選んでいるということも1つなんですけど、自分の人生をできるだけ自分でコントロールしたいというか、不確定な要素を減らすことですごい安心できるタイプなんだというのは今はよくわかります。自分でキャリアをちゃんと持っていたいタイプの人なんだっていうことが今ではよくわかっているので、それがないからハッピーじゃなかったんだろうなと思います。
猪熊:でもそこがわかったから今はすごいポジティブ曲線にいってますね。それはすごく大切なことで、すごく悩んでいるのは今モヤモヤしている女性たちが「自分はわがままなんじゃないか」「逃げ癖がついてるだけなんじゃないか」「自分は何を選んでも幸せになれないんじゃないか」というすごく極端な思考やネガティブな思考というか、そういうツボみたいなのに陥っちゃうことってすごくあるんです。 でもそのときにそのツボの中でぐるぐるしてても何も解決しないので違う視野で物事を見るために、例えば仕事だったら新卒で入った会社しか知らなければそこに合わないことが全部自分の世界が否定されてるように感じるかもしれないですけど、人事コンサルとかでいろんな会社を見ていくと別にいろんな会社があって自分に合うとこ行けばいいじゃんって思えたり。まさに結婚の場合も同じでこの人とうまくいかなかったからと言って誰ともうまくいかないってことではなくて、この人とうまくいかなかった中に自分らしさや特性だったり、自分の譲れないものがあって、それがたまたま合わなかったり相性が合わなかったれども、世の中にはたくさん男性とかパートナーがいてその中で自分らしく人生を歩んでいけるようなパートナーっているだろうという風な視野を持てるとすごく楽になるので、そのためにいろんな人の話を聞いたり、いろんな人に相談したり、自分の視野を広げるための行動というのを取っていかないと苦しくなっちゃうんだろうなという風に思いました。ありがとうございます。
質問が来ているので1個聞いてみましょう。幸恵さんになんですけど 「答えられる範囲でいいのですが、派遣として復職したときお子さんは実家などに預けたんでしょうか?どのようにご復職されたんでしょうか?」というご質問があります。
卜部:ありがとうございます。そうですね、派遣だと認可の保育園に入れないんですよね。そういうご質問なのかなと思うんですけど、私も当時入れなくて仕方ないので認可外で自分が払って入るタイプのところに預けて復職しました。私の母親は専業主婦で、さっき真理子さんが冒頭に説明してらした1番上のまさにそういう人生歩んで、彼女自身の価値観が割と娘である私たちにもそれを押し付けがちでした。だから多分私たちの世代の母親も「見るわよ、見るわよ」って孫の世話喜んで見てくださる母親もいればそうじゃない方もいらっしゃると思うんですけど、うちの母は割は後者で、自分の娘が働きながら子育てするというのにあんまり基本的に支援的ではない。彼女がそういう考えなんだったら私も自分の事情で彼女の考えを変えさせるのもなので、だったら自力でなんとかしようという風に思ってそういう選択肢を取っていました。
猪熊:本来派遣で働いている女性たちも認可の保育園に預けられるように世の中的にしてくれよという気持ちもすごくあるんですよね。うちも認可は全部落ちちゃって認可外に今預けていますけど、派遣でキャリア復職したときって多分金銭的にももちろん認可に入れた方が経済的にも負担が少なくなるという思いと葛藤があったと思いますけど、特に今は東京とか大阪とかだったら認可外の選択肢も結構あるし、ベビーシッターだったり、ご家族が近くにいらっしゃらなくても結構いろんな支援がありますよね。もちろんお金かかっちゃうんで経済的なバランスとの両立は必要だと思うんですけど、選択肢が多い。今私は大分にいて、比呂子さんは静岡ですけど、地方にいると認可外がないわけではないですが選択肢が少なかったり、サービスがそんなに充実していなかったり、家族もしくは家族がいないのであればお友達を家族のようにしてそういうコミュニティで支えられるような場所じゃないと育てづらいとかもあったりするので、その辺りは本当にまだまだ女性たちの不安とかモヤモヤの課題も大きいんじゃないかなと思っています。
猪熊:お2人の話をずっと聞いてたいんですけど、時間がちょっと迫ってきてるので事前に質問いただいたものから少しピックアップしていきたいと思います。これは比呂子さんに対する質問だと思うんですが「お子さんがいながら、どのように起業されたのか?企業直後のお仕事の獲得法、マネタイズについて」ってすごく詳しい感じですけど、どのような工夫をされたのか。子育てとの両立でどういう風にされたのかとか、実際の立ち上げの時の話ですね。少しお伺いしてもいいですか?
母里:立ち上げのときはとにかく空き時間に仕事をするというか、全部ノートにメモ。自分が考えてることも整理するため、ずっと自分が思い浮かんだことをノートにとにかく書くということをしていました。何か足りないものとか解決したい問題があるからこそ、その対策として商品の企画になったり、企画がそういう風に成り立っていくかなって思っているので、問題意識があることを全てアイデア作りのために書き止めたりして、 こうすればもっと良くなるなとか思いつきを可能な限り出して、その中から現実味があるものをとにかくピックアップして形にしていったっていう感じですかね。
起業直後のお仕事の獲得法で言うと、うちの場合は小売とか卸とかがメインなので、ここに自分が置きたい、自分の商品がどこにあるのがいいのか、という話になってしまうんですけど、置きたいと思うところにメールや電話でアプローチしたり、その分野で成功している人たちにお話を聞いたり。あとリクルート時代の営業のように泥臭くやっていたっていうのもあります。
猪熊:営業力を身につけようとしたのがすごく生きたってことですね。
母里:リクルートでは1日40件ノルマで飛び込み営業をしていたので、半年間はもうめちゃめちゃ泣きながらやってたんですけど、結構それでハートは強くなったなと思っています。半年続けるとメンタルが強くなりました。あとはメールだとお断りされてもあまり落ち込まないので、もし本当に起業したいとかだったらメールでアプローチするのは結構おすすめかなって思いますね。私も起業する前に赤ちゃんと働くという取り組みを真理子さんが提案してくださって、それで赤ちゃんと働くことをスタートしたというのも結構自分の自信にも繋がったので、自分の自信があるとどうアクションしようかなってまた思考が変わって動けるようになるので、それも結構大きかったのかなという風に思います。
猪熊:専業主婦からいきなり起業に行くまでの比呂子さんの経歴を少しだけ補足すると、営業力ならリクルートってリクルートで働いて、結婚・出産のあと専業主婦になりました。
私とちゃんとお話したのは、比呂子さんが妊娠中で「子供との時間を1番大切にしたいけど、今まで働くということで社会の中で誰かに貢献してきた気持ちがあるから、本当は誰かに貢献したいっていう気持ちもあるけど、それってわがままだよね」って言ったんですよ。両方やりたいなんてわがままだよねという話をしてて「え、なんで?全然わがままじゃないくない?」みたいなことを思ったわけです。当時うちの会社で 学生インターンとかを何名か雇ったりとかしている中で「じゃあ赤ちゃん連れてきて、一緒に働けばいいじゃん」っていう風に言って、専業主婦からうちのスタッフとして週に2〜3回とか、別にフルタイムじゃなくて数時間とかでいいので、そのときは赤ちゃんを連れてきて、オフィスで私とかうちのスタッフとかが赤ちゃんを見ながら、比呂子ちゃんはその間に結構集中して仕事して、その後家とかテレワークとかで業務をお願してやってもらうという働き方をしてたんですね。彼女は赤ちゃんが生まれた生後半年〜1歳半ぐらいまでの1年間ぐらい。そうやって働いてるうちに比呂子ちゃんが「自分の背中を見て子供が育つから、子供たちに恥ずかしくないとか、尊敬されるれるような背中を見せられるような生き方をしていきたい」ということで起業したいという想いが出てきて、応援して卒業しました。その後もサードファミリーって言って、1番には自分が生まれた家族、2番目は結婚とかパートナーが結びついて自分が選んで作る家族、3番目の心で繋がる家族みたいな感じで今だに繋がっています。多分お子さんがいたときに、お子さんいて起業するって女性は実は少ないかと思うんですけど意外と多いんですよ。子供がいて、それこそ幸恵さんみたいな再就職が困難だからもう自分で事業立ち上げちゃおうみたいなこともあります。おっしゃる通り、最初から経済的に成り立つのかとか、売り上げを出すのとか、給料もらえるのか、多分いろんなことで皆さん不安がある中でやっていってると思うんですね。起業されたときは子供さんはどうしてたんでしたっけ?保育園?幼稚園?
母里:起業しているときは幼稚園ですね。
猪熊:幼稚園に入れて幼稚園で送り迎えしながら、逆に自営業だと時間は少しフレキシブルになるところはあると思うので、両立しながらされてたという感じかな。ありがとうございます。
猪熊:もう1個の質問に少しお答えしておきましょう。これはお2人に答えてもらっていいと思うんですけど「転勤族の方と付き合ったら、我慢してついていかないといけないんでしょうか?」ということで、多分まだご結婚されてない方からのご質問かなと思うんですけれど、これどうですか?幸恵さんも告知のときに「女性たちには呪いある」と書いていただいてましたけど。幸恵さんはどんな風に思われますか?
卜部:はい、ありがとうございます。今転勤させる会社どやねんと思う気持ちありつつ。でもうちもそうですけど、特にIT系の会社でyahooも今は特にフルリモートで働ける会社がすごく増えてきているので、そういうところに身を置いておくというのはいいのかなと思いますね。例えば製造業とか事業形態によってはそういった働き方が実現しにくいような業界と、ITみたいにそういった働き方にシフトしやすい業界ってあると思うので、そういったところを戦略的に選んでいくっていうのはキャリアを保っていきたい場合は、1つのやり方としてはありなのかなと思いますね。
猪熊:そうですね。自分自身も転勤がなくてフルリモートで働けるような会社で働けば、もしついていってもどこでも仕事できるっていうのもありますし、もし相手が選べる状態なんであればフルリモートとかになっているようなIT系の方と付き合ったら、 住む場所、働く場所を自分たちで選べる可能性が高まるっていうのはあるかもしれないですね。
実際に比呂子さんは旦那さんが転勤族のお仕事だと思うんですけどどうですか?
母里:私の場合は、夫がフルリモートができない仕事です。これってタイプにもよるんですけど、旦那さんとか相手の人が一緒にいなくても平気な人と、一緒にいてほしい人がいると思っていて。そこは話し合いになるのかなと思っていますが、うちの夫は自分の時間がないと心の担保ができない人なんですよ。今私は静岡の浜松で、夫は東京にいるんですけど、週末だけ会うみたいな生活に変わっています。平日も週5で夫は仕事に集中して、子育てはちょっと寂しいけどよろしくみたいな感じではあるんですけど、それで自分のしたい仕事を一生懸命頑張れるという形なんです。「我慢してついていかないといけないんでしょうか?」という質問だとすると、ついていかなくてもいいと思いますっていうところがそうなんですけど、ただパートナーが一緒にいたい人ってやっぱりいらっしゃるんで、 一緒にいたいのに離れるっていうのだとちょっと揉めやすいし喧嘩とかになってしまうと思うので、そこを話し合えたらいいんじゃないかなって思います。
転勤でついていかなきゃいけない環境になったとしても、それってある意味ラッキーと思って知らない土地に住めて、いろんなことをまた経験して、卜部さんみたいにまたパワーアップするという意味では私はすごくいいなと思っていて、知らない土地で自分が知らないことをいっぱい学ぶこともできるし、今の時代に生まれている私たちだからこそいっぱい選択肢もあって、どんな形でも自分自身のマインド次第で仕事ってできると思っているので、どっちでもいいと私は思っています。
猪熊:比呂子さんも元々東京に家族みんな住んで、その頃私も東京に住んでいたんで結構家族ぐるみで仲良くさせていただいてたんですけど、その後旦那さんが神戸に転勤されて1年間単身赴任だったんですよね。その後比呂子さんと娘さん2人が追っかけて旦那さんのところに引っ越しして、神戸に住んでたんですよね。その後また旦那さんが東京に戻られて、東京に戻るかと思いきや、比呂子さんはご実家が静岡なんですけどご実家があるとこじゃなくて、ご実家から30分ぐらいの中都市の浜松に今比呂子さんと娘の2人が3人で住んでいらっしゃるんですけど、旦那さんだけ東京にいて週末だけ家族が一緒に過ごすという暮らし方になっているみたいです。静岡に住むとか、東京に戻る、戻らないとかっていうのは比呂子さんの中ではどうでしたか?
母里:正直なところで言うと、初めは東京に自分も住んでいて、私の場合は仕事もクライアントも東京なんですよね。正直東京に戻るのが1番ベストだなって仕事的には思っていたんですが、ただ教育というのを考えると幼稚園のときもそうだったんですけど、東京っていろいろな選択肢がありすぎて自分をちょっと見失うことがあるのかなと思っています。お受験組もいるし、公立組もいるし、インター組もいるし、いろいろな教育を自分で選べるんですけど、たまたま仲いい子たちが受験で、その受験の大変さも自分自身も応援しながら見ていて「働きながらこんなできるかな」という自信も正直私にはなかったこともあって。教育も仕事も両立させて、子供たちも私自身も心穏やかにやっていくっていうのは東京じゃない方が良かったのかなというのが正直なところ。
でも自分の地元だと、掛川を悪くいうわけじゃなくて掛川は大好きな自然もいっぱいあるんですけど、私が高校の時にCAになれないって否定してしまって。そういう環境はあったなと思うと、固定概念って誰でもあって事実を実績から見てそういう風に先生も言ってしまうとは思うんですけど、子供の可能性を潰していくっていうのはちょっともったいないなって私自身が思っていて。いい先生に出会って伸ばしてほしいなと思って、 浜松だと私立の選択肢もあって、公立も国立の選択肢もある。いろいろ見ていく中で彼女たちが何を選ぶのかにはなるんですけど、選べた方がいいのかなっていうことで、浜松から東京も1時間半で行けるので日帰り出張とかもできるし、子供たちが小学校に行ってる間に東京に仕事に行って、日帰りで帰ってくるみたいなこともやりながら今生活しています。
猪熊:幸恵さんとは前にも喋ったことあるんですけど、私も結構課題感を感じているのが、子供を持ちながら働いてる女性にとって女性が活躍するというのは、働く側の環境が整うだけではなくて子供の教育の環境も整ってないと、女性たちってそれこそ呪いというか罪悪感を感じているんですよね。自分が働いて自分の意思で満足していようが、働いてる中で子供にとって良くないところに預けざるを得ないとなるとやっぱり女性たちは罪悪感を感じて、本当に働くべきなのか子供を見るべきなのかってすごく悩んだり、ものすごい葛藤を抱えてしまうんですけど、子供の教育環境が整うことってすごく大切なことで、もちろん子供の能力開発にもなるし子供の人生にとってもプラスになると思うんです。
本来女性だけじゃなくて男性も預けているという感覚を持つべきかもしれませんけど、預けている女性たちにとって、子供にとってもハッピーな環境とか、子供の将来にとってもいい環境の体験をさせられている時間に自分も社会の中で価値を発揮できる、働けるというのは、本当にお母さんにとっても子供にとってもすごいwin-winのhappyな関係なので、そういった意味では女性の活躍と子供の教育ってセットだし、じゃあ今それが両方いい感じになっているかというと、どちらかというとトレードオフと言われるお受験のために仕事をやめるお母さんたちもたくさんいます。それでキャリアの断絶が生まれてしまったりしているので、そういったところも社会的な課題としてもっと改善していくポイントだし、女性たちがある意味悩んでいるモヤモヤするポイントなのかなという風にお話聞いていて思いました。ありがとうございます。
<後編に続く>
Commenti